富岡跨線橋からのカーブ

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 小樽駅から札幌方面に向かうと、列車が最初にくぐる陸橋が富岡跨線橋である。写真は、この富岡跨線橋から南小樽方向を写したものである。架線と重なって見えづらいが、小樽初のロードヒーティング可として有名な稲穂橋も見える。

 明治38年(1905年)から昭和39年(1964年)までの59年間、小樽駅から南小樽駅に達するまで、国道5号線と花園第一大通り(花園銀座街)に踏切があった。

 車社会となりつつあった昭和30年代頃から、悪名高い開かずの踏切となっていった。それを解消するための、高架化が実現したのが昭和39年(1964年)9月のことである。

 それ以来、踏切はなくなり現在に至る訳である。ただ、なぜに前述2つの大通りをまたぐ鉄路を設置したのかと疑問に思っていたのだが・・・。なんとウィルダネス社発行「小樽散歩案内2014年版」にその詳細が雑学話として記されていた!!!

 要約するとこんな感じだ。当初、現在の南小樽駅はご存じ北海道初の鉄道、明治13年(1880年)開業の幌内鉄道(後の手宮線)小樽駅として開業。

 小樽駅(当時は小樽中央駅)は明治36年(1903年)に、蘭島駅(当時は忍路駅)との間で部分開通した、函館からの北海道鉄道という別会社で建設され開業していた。函館までの全線開通は翌明治37年(1904年)。要は別々の路線が2つあったのだ。

 函館方面から札幌に向かう乗客は、小樽駅(当時は高島駅)で降り、南小樽駅(当時は小樽駅)までは徒歩か人力車、乗合馬車で移動していたというのだ。

 こんな不便がそう続くわけもなく、約1年後にこの二つの大通りを横切るように連絡線(1.6キロ)が完成したと記載されている。その連絡線が写真の左カーブである。花銀踏切を過ぎたあたりから、今度は右にカーブして手宮線と合流することになる。これにより明治38年(1905年)、函館から旭川まで一本の鉄路で結ばれたということだ。

 歴史をひも解くと、普段あまり深く考えないことがたくさんわかってくる。教科書や学術書だと凡人には分かりづらいのだが、ガイドブックだと面白おかしく理解できるのだと、改めて再発見させていただいた。

(斎藤仁)