軍事道路

 読者の皆さんは、潮見台から張碓までの山中にあった軍事道路を知っていますか。
 龍徳寺から潮陵高校の裏を抜け、現在の桜、望洋台の山を抜け、新光平野を抜け朝里十字街付近から山側遥かに望める採石場中腹を通過して旧張碓橋辺りから旧道につながる道である。

 この道路をはじめて知ったのは、小樽に来た昭和41年(1966年)の事。ちょうど軍事道路と真栄・天神に分かれる追分に亡母の岩見沢時代の高校同級生が住んでいた。同じ小樽に越して来たということで、久々の再会に私を連れて訪ねたある初夏の日だった。

 件の同級生は、母親に潮陵高校から軍事道路を上がって・・・と自宅を教えたようで、龍徳寺前のバス停から道々、ここは軍事道路って言うんだって・・・という話しをしながら目的のお宅に到着したのだ。

 子ども心に、何が軍事なのか聞きたくてしょうがない。私はなんで、なんでの年頃であった。早速、聞いてみたがそのおばさんも昔軍人さんが通ったからじゃないの・・・、良くわからないわという、どうも軍人道路と言ってるようにも聞こえる・・・、軍事か軍人か・・・。

 写真の山側軍事道路の先は、この追分から見ることができず、軍事道路の先に対する恐怖にも似た幻影を抱く事となっていった。

 軍事道路は、明治37年(1904年)、日露戦争に備え後方連絡用に、艦砲射撃を受けない山中に札幌までの道路を作るという国家プロジェクトだったようである。国家という割には、予算が付かなかった等紆余曲折の末、翌年どうにか開通している。

 大正9年(1920年)には国道となっているのだが、勾配やカーブがきつく馬車運行が不可能な状態だったので、利用するものは少なかったとの記録が残っている。

 海沿いの鉄道に沿って馬車道もあり、そちらを利用した方が得策という事だったようだ。現在の札樽国道が全面開通するのが昭和8年(1933年)。それ以降の軍事道路は、人々の記憶からも忘れられた幻の道路となっていった。

 そんな忘れられた軍事道路を歩くツアーを小樽市総合博物館企画で平成20年(2008年)秋、市民向けに開催され定員20名のところ30名の参加者が集まり、一世紀の時を超え古の廃道を楽しんだと新聞に掲載されたのを思い出す。

(斎藤仁)


※本記事の内容は2020年6月時点の情報に基づいたものです。