手宮洞窟
手宮洞窟は、慶応2年(1866年)朝里のニシン番屋建設に来ていた石工の長兵衛が発見している。発見当時、日本で唯一の岩壁陰刻画であった。大正10年(1921年)には、その価値が認められ国指定史跡となっている。
私が小学生だった頃、半世紀以上前になるが手宮洞窟を見学した事があった。その当時は昭和24年(1949年)に作られたブロンズの模写と保存覆屋が壁画を保護してあったのだが、中をのぞいても暗くて本物はよく見えなかった。
また、洞窟といっても洞穴があるわけでもなく急な斜面に掘られた壁画という印象だった。古びた「史蹟手宮洞窟」と書かれた大きな縦看板があったのだが、道路から階段で数段降りたところにあった覆屋は、春先など巻き上がる砂埃で汚れがひどかった記憶が残っている。
ただ由緒書きに、大正7年(1918年)広島高等師範学校教授中目覚(なかめさとる)氏の古代トルコ文字説として「…我は部下を率ゐ大海渡り…闘ひ…此洞穴に入りたり……」と書かれていたのだが、なぜだか妙に心に残っている・・・。
当時は、東京ロマンチカの「小樽のひとよ」の歌詞にも出て来ていた。極め付きは毎夏市中に流れる三波春夫が唄う「おたる潮音頭」の三番の歌詞に「手宮の文字」と出てくるので、手宮洞窟と言うより「古代文字」と言う方が一般的で、みんなはそう呼んでいた。
しかし、明治以来続いていた古代文字説は、昭和の初期には研究者の間で完全に終結していたという。さらに、昭和25年(1950年)、隣町余市でフゴッぺ洞窟壁画が発見されてから、この手宮洞窟壁画の価値が再認識されたと同時に、壁画としての存在意義が一気に高まっていった。
ちなみに日本国内で発見された洞窟壁画はこの2ヶ所しかない。現在は、完全に続縄文時代の陰刻画とするのが定説となっている。
手宮洞窟は、昭和61年(1986年)から修復事業を開始している。10年に渡る修復が終了し、平成7年(1995年) 手宮洞窟保存館として開館し現在に至っている。壁画は保存カプセルに覆われ、気温、湿度等完全管理されている。
ここには開設当初をはじめ何度かお邪魔している。初見の昔と違い、明るくとても見学しやすくなっている。
番外論争として昭和10年(1935年)の小樽新聞に、「古代文字の意匠で啀み合ふ三老舗」という記事が掲載されていた。愛信堂・千秋庵・吉野家の意匠争いがあったとの事。
公園通り花園十字街、現在焼肉店となっている元老舗和菓子店だった「吉乃屋」の「古代文字」というお菓子を覚えている読者も多いと思う。意匠争いの結末はそういうことだったようだ・・・。
(斎藤仁)
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※本記事の内容は2020年7月時点の情報に基づいたものです。
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