国立大出身の五輪ジャンパー
小樽はスキーのメッカである。日本人初の冬季五輪銀メダリスト猪谷千春も、小学生の頃(戦前)小樽の緑町に住んでいたことがあり、緑町の急坂でスキーを練習していた。
過去には、小樽はスキーの街として栄え、スキー産業も発展していた。スキー製造メーカーも多数あった。現在では、残念ながら、小樽のスキー人口は減少し(全国的にでもあるが)、スキーをする市民は少なくなってしまった。それでも、地元の国立大、小樽商科大学(当時は小樽高等商業学校)には、今なおスキー授業が残っている。小樽商大の競技スキー部は姿を消したが、基礎スキー部は少人数ながらいまなお活動している。
かつて商大出身の五輪ジャンパーがいた。宮島巌である。当時あった商大ジャンプ台で五輪壮行会が開かれた。写真には、壮行会の宮島の様子が映っている。小樽スキー100年の歴史の中でも宮島は特異な存在である。小樽生まれ小樽育ち、幼少の頃からスキーに親しんでいた。小樽潮陵高校(当時:小樽中学)時代は平凡なジャンプ選手だったが、商大へ進学後メキメキと頭角を現した。
宮島はメダルを目指した。オフシーズン、体にバネをつけようと自分で考え出した練習方法を使って体力づくりに励み、授業のない時間には腹筋運動にランニングをした。それでいて勉学も怠らなかった。放課後には学問に精を出した。
夜間も練習に打ち込んだ。毎夜、1時間の縄跳びを欠かさなかった。1日の日課が終わるとクタクタに疲れた。若さゆえ出来たことであろうが、応援する学友や先生にも恵まれ、才能を開花させることになる。
宮島はこの恵まれた環境を自分のものにし、現役大学生ながら、昭和11年冬季オリンピックに出場した。冬季五輪は、ヒットラー政権のもと、ドイツ・ガルミッシュパルテンキルヘンで開催された。日本人4名中2番目の成績で第31位であった。「恥ずかしいばかりの成績」と言葉を残した。宮島の目標は凄まじく高かったのだ。夢と希望を自らの手で実現するための努力を惜しまなかった。
第二の宮島が小樽から出てこないのは残念である。市民のスポーツとしてスキーが復活してくれることを願ってやまない。
(中川喜直)