小樽の「生き証人」
かつて私は小樽のミニコミ誌の編集のお手伝いをしていた。「おたるくらし」に記事を書いてみませんか?と声をかけられた瞬間から、私の頭の中に、すぐにも書いてみたい幾多のことがよぎった。今までに、ふとしたきっかけで聞いた「生き証人たち」の話がとても面白かったからということもある。がそれよりはむしろ「生き証人たち」の見てきた、聞いてきたものを語り継がねばならないという思いそのものからそれが出てきているように感じられた。
昔の小樽の花街の話、相生町にあった樺太からの引揚者たちの住宅の話、旧手宮線の色内駅の話、オタモイ竜宮閣の話などなど。
子どもの頃からそのような昔話を聞くのがとても好きで、親戚や近所の大人たちがそういった話をはじめると食いついて聞いていた。
先日、「花銀こども商店街」のイベントに参加した折、そのイベントの最後に「花銀歴史講座」が開催され、佐々木鉄砲店の店主だった佐々木徹さんのお話しをうかがった。
佐々木さんは、花銀の歴史から小樽の歴史、北海道の歴史、そして日本の歴史、最後には世界の歴史へと遡りながら話をして下さった。花園の歴史が世界の歴史の一コマであることを感じた。
佐々木さんはこんなエピソードも教えてくれた。旧幕府軍の総大将、榎本武揚が小樽の土地柄を見、移住者の住む土地を蝦夷地ではまず小樽と決めた。京都をモデルとして町づくりを行ったので、「花園」「梁川」「嵐山」など、小樽には京都と同じ地名がいくつもある。当時、小樽の山田町では、日本の仏壇の6割を作っていた。
やがて小樽に本格的な町がつくられると、北海道開拓のため内陸へと入る人々の起点となった。旅人たちが未開の山道でクマやいのししと遭遇しても無事にまた小樽に戻ってこられるようにと、旅人たちは鉄砲を小樽で買って備えた。開拓の安全祈願をよく行ったため小樽には神社、寺が多くある、などなど。
話を伺いながら、鉄砲を買って内陸地へと向かった旅人の話などもう少し詳しく伺えたらと思った。
「おたるくらし」へ寄稿するという大義名分が私にできた。また取材を行えるのを楽しみにしている。「生き証人」の思いを文字にして残したい。もし小樽の「生き証人」が身近にいらしたらぜひご紹介ください。
(erico)