ダンスホール

dancehall

昭和30年代後半から40年代前半にかけて、小樽には10数軒ものダンスホールがあった。エンペラー、コトセ、エルサムバー、ナショナル、港ホール、ブルーシャトー、花園、ニュー三条、ゴールデンスター、キングオブキング、ビクター、等々。現在営業しているのは、写真の嵐山通りゴールデンスタービル1階にあるベルサイユのみである。ご覧のように今は古びているが、入口から中まで贅を尽くした作りとなっている。前述エンペラーは貸しホールとしてかろうじて残っている。

戦後、進駐軍が小樽にも駐留し、米兵相手のダンスホールが南小樽駅付近に開設されたと、昭和62年発行北海道ダンス教師協会40年史に記載されている。小樽は港町ということもあり、戦前よりダンスの盛んな街であった。コトセのように、ニューギンザ、大黒屋などといったデパートの中で映画館に隣接して営業しているものもあった。極めつけは、大黒屋の隣の4階建てのビル(後のコーヨー無線、今はさらに建替えられてプラージュ)。この中には3軒(エスカイヤ、メトロ、ニューメトロ)のダンスホールが入っていた。どのホールも曜日にかかわらず満員札止めだった。今では想像もできない。

男女が向かい合い踊る社交ダンスを、欧米ではボールルームダンスと呼んでいる。日本で広く通じるソシアルダンスは和製英語で残念ながら外国人には通じない。ボールルームとは舞踏室という意味の英語、ボールとは球祉、足の親指付け根を意味する。犬、猫で言えば肉球であろうか。

昭和30年代と言えば、CDはおろかカセットも無かった時代である。すべてのダンスホールには生バンドが入っていた。幕間にレコードをかけることはあったがホールの主力は生演奏であった。商大の学生バンド、社会人バンドと多くのアマチュアミュージシャンに割の良いアルバイトができた。特に人気のバンドマンには、昼の給料より、ホールの演奏アルバイトの方が実入りが良かった。

プロを目指し小樽から上京する若者も多かった。なにしろ団塊の世代、競争も激しくほとんどは夢破れ、音楽以外の仕事に就いたが、桜陽高校からギタリストとして上京した川村栄二、安田裕美のように中央で名声を得る者もいた。川村は日本を代表するアレンジャー(編曲家)になり、安田はギタリストとして活躍している。ちなみに、安田の妻君はフォーク歌手の山崎ハコだ。

(斎藤仁)