手宮線の記憶
「あれ、こんなところに線路?」
小樽のまちを歩いていると、今は使われていない線路を見かけることがある。車道を横切る線路跡、電車が通らないのにある踏切………。どこか周りの街並みとは違った雰囲気が漂う。まるでタイムスリップをしたかのような不思議な感覚だ。
「手宮線跡地」――線路の途中に、そう書かれた看板がある。観光地として人気がある手宮線跡。観光客はカメラを向けている。一方で、当たり前のように通り過ぎていく人たちもいる。地元の人たちにとっては「日常」の一部なのだろうか。
初めて手宮線跡の写真を見たとき、衝撃を受けた。私の地元は北海道の空知で、小樽は遠いものの観光や受験で何度か訪れたが、手宮線は知らなかった。現代の日常風景に現れるその線路がとても不思議だと思った。
だが手宮線の歴史を知った瞬間、急に歴史を身近に感じた。私は地元の人でもないのに、なぜか懐かしくなった。
手宮線の歴史は、明治までさかのぼる。空知で良質な石炭が見つかり、本州へ輸送するため、空知と小樽を結ぶ鉄道がつくられた。
1880年に手宮~札幌間、1882年には空知の幌内まで開通。「幌内鉄道」として開通し、その一部の小樽(現:南小樽)~手宮間が後に手宮線と呼ばれた。
物資の輸送で大活躍して賑わいを見せたが、高速道路が整備されていきトラック輸送が普及したことで、利用者が激減。役目を終えた手宮線は1985年、廃止となった。
長い歴史を歩んだ手宮線の廃線跡は、今もほとんどが残されている。実際に線路の上を歩くこともできる。踏切警報機なんかもそのまま残されており、古びたそれは、手宮線が活躍していた頃を想像させる。
わくわくするのと同時に、どこか寂しさや懐かしさも感じる。
歴史を知り、地元空知で採掘された石炭が手宮線の鉄道で運ばれていたのだと思うととても身近に感じた。きっと他にも北海道のいろいろな物資を手宮線は運んだのだろう。
北海道の発展を支え、小樽の人とともに歩んだ手宮線は、今もなお、何気ない日常の中で私たちに寄り添っている。
(かわ)
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※本記事の内容は2020年8月時点の情報に基づいたものです。
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写真:眞柄 利香