伊藤整文学碑
先日、塩谷ゴロダの丘にある伊藤整文学碑に初めて行ってきた。国道に案内標識があり、幾度となく通り過ぎたところである。今回、ハンドルを国道から左の山側に切りゴロダの丘に向かって愛車を走らせた。
小樽を代表する作家と言うと、小林多喜二と伊藤整の二人が挙げられる。ただ、伊藤整が育ったころの塩谷はまだ小樽市に編入されておらず、厳密にいうと、塩谷村が育んだ日本を代表する文学者ということになるが・・・。
この文学碑は昭和45年(1970年)5月に建立されている。整の没後翌年である。碑文は詩集「冬夜」の中から「海の捨児」の冒頭二連で、字体は整自身の文字を拡大刻印している。台石を含め5mにもなる塩谷産の安山岩でできている。旭展望台にある多喜二文学碑にも負けないほど立派なものである。
生前、整は自身の文学碑建立には頑なに拒否していたのだが、病床に伏した晩年、塩谷の同級生たちが発起人となったこの文学碑建立には、快く承諾したのだという。
整が私の母校、潮陵高校の前身旧制小樽中学出身というのはよく知られている。そこから小樽高商(現小樽商大)に進み、多喜二の一学年下になる。卒業後、新設の小樽市立中学(現長橋中学)の新任英語教師として奉職し、その2年後、東京商大(現一橋大学)に進み、文壇で活躍することとなる。
話しは変わり、潮陵高校では6月に開催される体育祭に、伝統行事として各クラスごとの「むしろ旗」作成があった。社会、政治問題を風刺した内容が主だったものであった。私の1年次「氾濫と反乱」という表題で作成し、見事学年最優秀賞を受賞させていただいた。
ちょうどその年(1975年)の5月に、連続企業爆破で逮捕された、後の日本赤軍佐々木規夫(今も国際指名手配中)と、整の著作「氾濫」をひっかけたものだった。どちらも先輩ということだったのだが・・・。
表題アイデアは私が出したのだが、図柄は美術部クラスメイトがうまく描き上げ・・・、今思えば大変失礼な・・・、なんともなあ・・・という内容だったのだが・・・。
さて、伊藤整の本名は「ひとし」という。私と同名だ。ひらがな表記にすると「いとうひとし」、わたしは「さいとうひとし」。伊藤整にさ(差)を付けた・・・と一瞬喜んだと思ったのだが、家内からは、さ(差)が付いたでしょ、と冷ややかに言われてしまった・・・。もちろん後者が正しいのであるが・・・。
(斎藤仁)