小樽商業高校

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「庁商は美唄のおじさんの出身校だ」
「ちょうしょうって?」
「昔、商業高校の事を庁商とよんでいたんだ。上にある商大を高商とも呼んでいたんだぞ」

私が父の転勤で小樽に来たのが、昭和41年(1966年)4月1日。商業高校前の古い一軒家を間借りして居を構えたわけであるのだが、そこで私にとっての大叔父(祖父の弟)が、庁立小樽商業学校出身ということを教えてくれたのだった。

私が生まれた年に他界しているその大叔父との記憶はまったくないのであるが、岩見沢から当時汽車で3時間以上離れていた小樽の学校に入学するわけであるので、ここの教育水準の高さは推して知るべしだ。ちなみに、プロレタリア作家小林多喜二の6年後輩ということのようだ。

そこに住んだのは1年間だったのだが、商業高校には多くの思い出がある。

春のある日、近所に住む同級生が、ザリガニを取りに行くと言うので、興味津々連れて行ってもらった。昆虫図鑑に出ていたザリガニは、カブトムシやクワガタほどの大きさで、それが見られる喜びにわくわくしながら、その現場に向かっていた。

そこは商業高校裏の法面、そのコンクリートブロックの間から湧き水が出ていて、その下の側溝には小さな、1センチほどのザリガニがうようよといたのである。
それを空き缶ですくって、楽しんでいたのであるが・・・。

「これザリガニかい???」
「そう、ザリガニだよ!!!」

よく見ると、図鑑で見たザリガニと同じ形はしていた・・・。なんとも拍子抜けなザリガニとの初対面であった。

そんなこんなで校舎回りでは、よく遊ばせていただいた。その当時はまだ先代の木造校舎だった。生徒玄関は校舎下の通りに面してあり、斜路を上がり弓道場の横、校舎とかまぼこ型の当時の新体育館を結ぶ渡り廊下のところにあった。

今と同じ位置に25mプールもあったのだが、上屋テントはなかった。校舎上の通りから水泳部が練習している姿がかっこよかった。また、プールと並んで旧体育館もあり、さらに商大通り側に講堂もあり、新体育館と合わせると大中小3つの体育館があった。

ザリガニ法面の上には30m級のジャンプ台もあり、冬スキー部の生徒が飛んでいるのを見たこともあった。ちなみに、昭和47年(1972年)札幌オリンピック70m級銅メダリストの青地清二選手はここの出身である。

地獄坂を挟んだ向かい側には、できたばかりの山上グラウンドもあり、そこで野球部は練習していた。遠くからもこのグラウンドの削られた赤土の法面が見る事が出来るが、旭展望台からの帰りに、この一番上から近所の年長者も含めた10人くらいで、滑り台よろしく滑り降りたことがあった。それは初冬の頃で、どろだらけになり母親からこっぴどく叱られた苦い思い出である・・・。

(斎藤仁)