樽協(小樽野球協会)の社会人野球

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 かつて小樽の野球と言えば、社会人野球のことだった。樽協(小樽野球協会)の社会人選手は市民の間ではスター選手だった。

 昭和41年春、私が小樽に来たばかりの小学生の頃、同級生の平久保君に野球観戦に誘われた。桜ヶ丘球場で、彼のお父さんが勤める拓銀の試合があるというのである。

「どことどこの試合なの」
「たくぎんとおたるきょうかいだって」

 美唄にいた頃キリスト教会系の幼稚園に通っていたので、てっきり小樽にはキリスト教会の野球チームがあるんだと思った。それが、樽協の名前を聞いた第一印象だった。

 私自身2度目の本格的な野球観戦だった。定かではないが、おそらくオープン戦だったと思う。観客もまばらで、結果は拓銀の大勝だった。樽協の試合を見る前の年、父が勤務していた美唄工業が南北海道大会を勝ち抜き、古豪北海と甲子園出場をかけての決勝を、札幌中島球場に、応援に行ったことがあった。樽協の試合とは対照的に、満員の観客で埋まっていた。

 社会人野球チームとしての樽協は、私が観戦した昭和41年には、既に最盛期を過ぎていた。北海道の社会人野球は、拓銀、電電、王子、大昭和、富士鉄(新日鉄)の五強の時代だった。函館太洋(オーシャン)、樽協のようなクラブチーム、それに五強以外の企業チームには、冬の時代だった。

 先日、現樽協部長、迫俊哉氏を小樽南ロータリークラブにお招きして、樽協の歴史をご講演いただいた。樽協OB会が、小樽野球協会「球史」(昭和20年~昭和30年)を上梓したところだった。迫氏は、私と同じ潮陵高校出身、私の1学年先輩で、自身も投手として活躍され、樽協でも監督、総監督を務められ、現在部長として、チーム運営の一翼を担っておられる。

 迫氏の講演をもとに、樽協の歴史をひも解いてみよう。樽協は、昭和2年に発足した。協会の名が示す通り、当初は数チームが所属する「団体」だった。前述のオーシャン、札鉄(現JR北海道)に次いで、道内3番目の歴史を有する古豪である。敗戦直後に、樽協は最盛期を迎え、河-目時の黄金バッテリーを擁し、後楽園球場で開催されたノンプロ社会人野球全国大会(都市対抗野球)に、昭和23年、30年の2度、北海道体表として出場している。

 昭和23年の第19回大会では、同大会で優勝することになる西鉄と対戦し、河の好投で、7回までゼロ行進の投手戦を演じ、8回裏2死後に相手3、4番の連続長打で3点献上し惜しくも敗れた。当時の道新にはそう掲載されている。西鉄は後にプロ球団となる。今の西武である。大型捕手として話題を集めた樽協の目時選手は、この年のオフ、新興球団松竹ロビンスに入団する。第二エースの仲川翠投手(後の道高野連会長)は、25年始め国鉄スワローズに入団、エース河投手も25年10月阪神タイガースと契約している。

 河投手が銭湯でサロメチールスプレーを肩にかけると、それを見ていた子供たちが、こぞってそのまねをした、という。おたるくらしスタッフY氏が偶然河投手の甥ごさんで、Y氏が、お母さんからそんなエピソードを伝え聞いていた。Y氏は誇らしげに、微笑みながら私にそう語ってくれた。

 樽協は、今なお存続する小樽唯一の社会人硬式野球チームである。これからも、古豪として、様々な歴史を刻んでいただきたいと思う。

(斎藤 仁)