小樽雪あかりの路
小樽の町がろうそくの灯りに煌めく如月の約10日間。そこに訪れる人、会場のオブジェを作る人、ろうそくの点火をする人、道路を整備する人、撮影をする人、見守る人etc…
関わる人の数だけ『雪あかりの路』のドラマがある。
今年もどれだけのドラマが生まれただろう。
私が見たのは、雪あかりの路の運河に浮かぶ“浮き玉キャンドル”の浮き玉を作っていた硝子工場『浅原硝子』。
浅原硝子は創業明治33年の小樽で最も古い硝子工場のひとつ。創業10年後より漁業用の浮き玉を作り、小樽の鰊漁や北洋漁業に大きく貢献した。現在4代目が操業する工場では、インテリア向けの浮き玉やグラス、生活雑器の制作が多く、漁業用の浮き玉は僅かだと言う。
雪あかりの路が初めて開催された16年前、当時3代目浅原陽治氏の元に、ろうそくを入れる浮き玉作りの話しが持ちかけられ、関係者と共同開発されたものが“浮き玉キャンドル”だった。運河で揺らめく浮き玉キャンドルの灯りは人々を魅了した。
しかし、雪あかりの路開始から7年後、3代目陽治氏は病床に臥し、残念ながら浮き玉キャンドルの浮き玉は他業者が製造することとなった。現在の4代目浅原宰一郎氏は、当時硝子職人への道は歩んでいなく、離れた土地で全く別の職に就いていた。
しばらくして、陽治氏が荼毘に付された。宰一郎氏はその時初めて、“浅原硝子”が無くなるという現実を目の当たりにし『3代続いてきた硝子工場の火を消すわけにはいかない』と一念発起。自分の原点への回帰、浅原硝子4代目継承者となった。
それから7年後、宰一郎氏は今年初めて『雪あかりの路浅原硝子会場』を造った。子どもの頃に遊んで慣れ親しんだ工場裏の勝納川や工場内外で浮き玉キャンドルに灯を入れた。自分の中で消すことが出来なかった“浅原硝子の火”。宰一郎氏は、今年の雪あかりの路浅原硝子会場で「俺のルーツにあかりを灯していると感じた」と話してくれた。
その強く赤い灯りはこれからどれだけの人を照らすのだろう。
(erico)