対面の地

 小樽で晩年を過ごした新撰組隊士永倉新八と、自称近藤勇の娘山田音羽対面の地の看板が、国道5号線と市役所通りの交わる地下歩道階段山側の植え込みに立てられている。

 この看板は以前市役所の駐車場内に立てられていた。ちょうど公園通りに豊楽荘がまだあった頃で、豊楽荘の真裏にこの看板は立てられていた。写真の看板にも現市役所左隣が対面の地であるとの記載が読み取れる。その豊楽荘が解体されマンションが建設される時にこの地に移ってきたようなのだ。

 この看板を市役所駐車場内で見たときは、へぇー、こんな事があったんだと記載事項を読みながら思ったものだった。そしてこの看板が、いつのまにか国道沿いまで移動してしまったのだ・・・。

 さて、永倉新八と自称近藤勇の娘山田音羽との対面は、間違いなく大正2年(1913年)5月22日に行われた歴史的事実である。永倉が当時大変珍しかった近藤勇の写真を所蔵している事を伝え聞き、それを見せてもらいに来たというのが対面の理由と言われている。

 娘義太夫として舞台に上がっていた山田音羽は、一座の北海道公演で札幌に来た時に対面を果たしている。当時すでに齢70を超えていた永倉は、彼女がその写真を書き写して札幌の宿に帰って行った。顔が近藤に似ていたとの感想を残している。

 ただ、いろいろな文献を読むと、山田音羽の生年当時の近藤の立ち位置を考慮すると、近藤勇の娘ではないとする説が有力なようである。

 しかし、今でこそ幕末のヒーローの一人に数えられる新撰組の近藤勇であるが、明治維新当初は、明治新政府要人に成り得た人たちを殺害していったテロリスト集団の親玉という汚名を着せられていたわけであるので、「近藤勇の娘」と名乗り、得をしたとは考えにくい時代背景があったはずである。

 山田音羽の自作自演なのか、母親や回りの口述を子どもの頃より聞いて信じていたのかは定かでないのだが、新撰組の汚名を「新撰組顛末記」によって世間に再評価させていた永倉新八に単に会いたかっただけなのかはわからない。

 以前「公会堂」の時に書かせていただいた「小樽は謎の街」。この対面の地も公会堂と同じ「小樽花園町」ひらがなに書き直すと「おたるはなぞのまち」「小樽は謎の街」なのである。

(斎藤仁)