旧末広中学校

 手宮陸上競技場の向正面トラックの後方、盛土スタンドに隣接していた末広中学校は、平成29年(2017年)3月末をもって69年の歴史に幕を下ろした。一緒に閉校となった北山中学校と共に、手宮西小学校校舎を利用して新設された北陵中学校に統合された形となっている。

 私が末広中学校の存在を初めて知ったのは、松ヶ枝中学校に入学した昭和46年(1971年)春のこと。前述した手宮グラウンドで校内陸上競技大会が開催された時のことである。

 全校生徒が陣取った正面観覧席のグラウンドを挟んだ向こう側にモルタル2階建ての校舎が見えた。担任の先生に前方に見える校舎の事を聞くと、末広中学校だと教えてくれたのだ。付け加えると私は中学時代、陸上部に所属していた関係で、その後3年間その旧校舎を眺めながら中体連などの陸上大会に出場していたのだが、競技場の裏側ということもあり、校内に入ることはもちろんのこと、校舎に近づくこともなかった。

 話しは少し戻り中学入学当初のこと、学校生活にも慣れてくると、小学生だった頃とはちょっと違った上下関係の存在に直面した。1-2学年上だった幼馴染に対して「さん」付けしなければならなかったり、部活の先輩に対して校内で出会ったら「こんちわー」とあいさつしなければならなかったりと・・・。

 そんな中、先輩からまことしやかにこんな話しを聞かされた。
 「いいか、街で北山と末広の生徒にあったら気をつけろ。あいらは本物だ」
  そんな物騒なこと、先月まで小学生だった入学したての子どもに言われても、何が本物なんだかわからない。よく聞くとどうも、腕っぷしが良いということのようだがその理由がまたふるっていた。
 「末広は高鐵山の母校だ。わかるべ・・・」

 当時大相撲幕内にいた高鐵山が小樽出身とは聞いてはいたが、末広中学校出身とはその時に初めて教えてもらったのだ。ただ、大相撲は横綱大鵬全盛の時で、高鐵山も最高位関脇まで上り詰めてはいるのだが、子どもの記憶では幕内下位で勝ったり負けたり状態だったので、高鐵山の母校といわれもねえ・・・ってな感じだったのだ。

 私はその腕っ節の強い末広中学校と中体連の相撲で対戦した事がある。昭和46年(1971年)7月、塩谷中学校を会場に行われたその年で終了する相撲の中体連小樽大会1年生団体の部でのことであった。3勝2敗で見事難敵末広中を破ったのだ。そのうちの1勝は私が上げたものである。と過去の小さな栄光を一つ付け加えさせていただいた・・・。

(斎藤仁)


※本記事の内容は2019年12月時点の情報に基づいたものです。