富岡跨線橋

 富岡跨線橋は、通称日銀通りと言われている市道浅草線の函館本線に架かる跨線橋である。この跨線橋から上を第二の地獄坂と称しているのをご存知な方は、相当コアな小樽ファンである。

 この橋の山側には、警察署、税務署、検察庁、法務局、道税事務所などが両側に並んでいたからとの理由であるのだが、橋の山側から前述の「通り」までは、ダラダラ坂で元祖地獄坂商大通りのような急坂ではない。ちなみに、現在税務署、法務局は港町の合同庁舎に移転している。

 現在の富岡跨線橋は、昭和55年(1980年)12月竣工と欄干の橋名板(きょうめいばん)に記載されているので、すでに40年近い年月が経過している。付け加えるなら、40年という年月はまったく感じられないくらいに、しっかり保全されているように外観からは見える。

 小樽の歴史を少々紐解いてみる。明治37年(1904年)、函館から高島駅(現小樽駅)までの鉄道が全線開通する。しかし、北海道最初の鉄道旧手宮線とはまだ繋がっていなかった。つまり、この時点ではまだこの跨線橋は存在していない。

 函館から道都札幌に鉄道で行くには、高島駅から人力車や乗合馬車で小樽駅(現南小樽駅)まで行かなければならなかったのだ。ちなみに高島駅から旧手宮線の色内駅が最寄駅なのであるが、色内駅ができるのは全線開通の7年後大正元年(1912年)という事だ。

 明治38年(1905年)、高島駅(現小樽駅)と小樽駅(現南小樽駅)が、この不便を解消するため7ヶ月の工期でつながったことにより、この跨線橋ができたのである。札幌のような平野の街ならば踏切という選択肢もあったのであるが、なにしろ山坂の街小樽である。

 最初に架けられた橋の名前は、なんと浅草橋だという。現在小樽運河に架り、多くの観光客が集まるあの浅草橋である。手宮側から埋め立てていった小樽運河が完成するのが、大正12年(1923年)。この通りの小樽運河に架かった橋はすぐに浅草橋と名付けられていたので、この富岡跨線橋が浅草橋と名乗ったのは、小樽運河が完成するまでの15.6年かなと思っている。はたまた、ある期間浅草橋が二つ存在したとも考えられる・・・。

 まあどちらにしても、今は富岡跨線橋と名乗って小樽市民の重要な幹線道路を下支えしているのである。

(斎藤仁)