和田式共用栓
写真に写る消火栓のような形状のものは、和田式共用栓と言って、小樽の水道が創設された大正3年(1914年)から、市内各地に設置されていた共同水道口です。
ちなみに写真は、小樽市水道局の前にある物を写しました。その他に花園銀座街新倉屋本店前、小樽運河の浅草橋街園、小樽市総合博物館運河館にもあります。
新倉屋さんと浅草橋街園の物は、この特徴あるライオンの口から水道水が流れています。写真の水道局と、博物館はあくまで展示用として保存しているということです。
資料によりますと、この通称「ライオンの水道」は、昭和20年代には市内各地に見られたのですが、昭和30年代に入り各家庭に水道が引かれるようになっていくと、その役目を終えることになります。正確には、昭和50年(1975年)にすべて撤去されたとの記録があります。
私が小樽に越して来た昭和41年(1966年)には、もうほとんど街中では見る事はありませんでした。私は当然その存在も知らず子ども時代を過ごし、大人になっていきました。
この「ライオンの水道」の存在を公に初めて知ったのは、浅草橋街園で音楽イベントを開催するようになった平成16年(2004年)7月のことだったのです・・・。
さてさて、先日の話しですが、教室で70歳代の生徒さんとの雑談の中で、この「ライオンの水道」の話しが出たのです。昭和20年代に、色内大通り界隈にお母さんとお二人で住まわれていたその生徒さんが言うには、「ライオンの水道」が前にあるお店に、その水道を開けるレバーを借りに行っていたと言うのです。
その生徒さんのおぼろげな記憶では、そのお店に水道水をもらいに行っていたと言うのです。さらに、お金持ちはそのレバーを自前で持っていたと言うのです。
小樽市水道の記録によると、共用給水の料金は1カ月に付き一戸5人まで金20銭。6人以上は1人増すごとに金3銭を加えるという定額と記載されていました。
水道水をもらっていたとか、開閉用レバーを買ったとかは、定かでないのだが、戦後の混乱期、公式記録に残らないものもあったのかと、ふと考えたできごとでした。
(斎藤仁)