花園グラウンド

 花園グラウンドは小樽公園内にある大きな野外運動場である。小樽市としての正式呼称は、小樽公園運動場とされているが、多くの小樽市民はその地名から花園グラウンドと呼んでいる。

 小樽体育協会が平成19年(2007年)に出版した創立80周年記念誌によると、明治32年(1899年)に、当時行われていた小樽市内小学校連合運動会を開催するために、このグラウンドを開設したと記載されている。

 小樽公園の正式開設が翌年の明治33年(1900年)であるので、公園よりグラウンドの方が1年早くオープンした事となる。

 私が卒業した緑小学校はこの花園グラウンドで運動会を開催していた。私が卒業したのが昭和46年(1971年)3月。当時、このグラウンドの敷地に昭和49年(1974年)に完成した総合体育館がなかったので、今よりも大きなグラウンドだった。加えて言うと、自分が子どもだったこともあり、今よりももっともっと大きく感じていた・・・。

 ただ、当然の事ながら、体育館建設でグラウンドの約4分の1が取られる事になったので、忠魂碑側に3段あった法面の1段を削り、現在の2段にして、狭くなった部分の補てんをしたのだった。

 さて、私は高校卒業後、仲間と当時流行っていた草野球チームを作り、春から秋にかけて軟式野球を数年間楽しんでいた。昭和50年(1975年)頃、小樽市内には朝野球協会登録が300チーム以上、たそがれ野球と言われた軟式野球連盟登録が約80チーム、未登録を合わせると400チーム以上が小樽市内のグラウンドで草野球を楽しんでいた。

 この花園グラウンドで行われていた朝野球公式戦は、バックネットのある2面はもちろんの事、桜ヶ丘球場側にも簡易ネットを付設して3面で試合を消化していたのだ。特に外野のセンターポジションを想像していただきたい・・・。3選手が隣り合って守備位置に付いている状況を・・・。

 他面の外野手が邪魔になるのは日常茶飯事で、試合中に他面のボールが飛んできて、中断することもしばしばあったものだった。

 さらに、昭和43年(1968年)から54年(1979年)までの12年間は、潮まつりの本会場として、約一か月花園グラウンドが使えなくなるものだから、前述の協会、連盟から小樽市に対し、会場変更のかなり強い要望を出し続けていたとも聞いている。そんな一因もあり、潮まつりは山から本来の海に戻って行ったというわけなのである。

 今は閑散としている花園グラウンドを見ると、芭蕉の一句「夏草や兵どもが夢の跡」 を思い出してしまう。

(斎藤仁)