旧木村邸の石垣
中央バス最上線、緑第二大通りに「檜通り」というバス停がある。写真にある通り、何の変哲もないバス停である。
昭和42年(1967年)4月から1年間、檜通りの一本上紅梅通りに住んでいたので、小樽駅方面に出るときはここからバスに乗っていた。
さて、今回は後ろの大きな石垣である。最近この石垣が木村円吉邸のものだったと、この近所に住む「杜のひろば」会長の大橋一弘さんに教えていただいた。
この石垣の上は、昭和30年代後半から、公務員宿舎が何棟も建っている広い場所である。そこには同級生が何人もいて、この石垣の上の団地街や、さらに後背地の円吉山で遊んだことも数知れずあった。
当時から、木村円吉別邸洋館(ここが木村本邸だと思っていたが・・・)は、この石垣の最上町寄りにあり、「旧荒田邸」の回でも書かせていただいたが、正法寺下の松川邸、前述荒田邸とともに、木村円吉邸を加えて緑第二大通りの三大屋敷と近所のこどもたちは呼んでいた。
今回教えていただいた木村邸跡は、現在小樽に歴史的建造物として残る数々の大邸宅、水天宮界隈の板谷邸、寿原邸、祝津の青山別邸、和光荘などをはるかに凌ぐ敷地面積であった。
戦後、税金の物納という形で、この石垣の上に建つ大きな邸宅は、国の物となったのだが、その後もしばらく木村邸は残っていたようで、前述大橋さんも子どもの頃の昭和20年代後半、近所の仲間たちと邸宅内の池や大きな庭、それに続く円吉山で遊んでいたという。
私は昭和45年(1970年)秋に行われた、緑小学校開校50周年記念式典に6年生として参加している。記念冊子の中におぼれ気な記憶の中で、歴代校長とともにPTA会長、同窓会長も記載されていた。そのPTA会長か同窓会長の欄に木村円吉(初代)、木村円吉(2代)を見つけ、子ども心に親子で同じ名前って不思議・・・、と思った記憶がある。
間違いなく冊子には初代、2代目と記載されていたのだが、実際は5代目と6代目だったと、平成5年(1993年)に上梓された木村円吉自伝「雪の駆逐艦」に記されていた・・・。
(斎藤仁)