海猫屋

uminekoya

 海猫屋にはじめて入ったのは、昭和51年(1976年)12月末の、雪が深々と降り注ぐ寒い夜だった。今から40年前の話しであるが、中学時代の悪友数名とプチクラス会をそこで開いたのだった。聞くとその年の6月に喫茶店兼飲み屋、そしてライブハウスとしてオープンしたばかりと、常連気取りの悪友の一人は言っていた。

 当時の色内大通り界隈は、まだ問屋、商社街で、高校生が立ち入ることはほとんどなく、市内に住んでいても、この界隈の土地勘はまったくと言っていいほどなかった。

 山手線の本局前でバスを降りた後、言われた通りに店を探したつもりだったが、なかなか探し出すことができず、雪の中、右往左往しながら、明かりのついた店を何件か覗いてみること数回、やっとの思いで海猫屋を発見したのだった。

 こんな不始末をしでかしていたので、私は少し遅れて到着した。店のドアを開けると、カウンターに2.3名の常連らしき男性がおり、仲間は小上がりに陣取りすでに宴会をはじめていた。呼ばれるまま、その小上がりに座ると、その壁には裸で白塗りの前衛舞踏ダンサーの白黒写真が飾られていた。

 後にそれが山形県鶴岡市の出羽三山麓から移住してきて、海猫屋の2階を稽古場として使っていた、ビショップ山田率いる北方舞踏派、鈴蘭党のものだとわかった。

 そして前述、その小上がりが舞踏ステージだったわけである。なにしろ小上がりに変わるステージである。高さ、広さは想像頂けると思う。現在、ダンスを生業としている私であるのだが、残念な事に機会がなく、それらの前衛舞踏を未だ拝見したことはない。

 その頃、当時としては大変珍しいスキンヘッドで細身の北方舞踏派のメンバーを市内各所で見かけた方々も多いと思う。時にスーパーマーケット、時に路上で・・・、てな具合である。まあ、彼らも小樽で生活しているのだから会うのは当然ではあるのだか・・・。

 後にここを出て、すぐ近所の旧前堀商店(現リサイクルショップ)に「魚藍館 (後に万象館)」という新稽古場兼劇場をオープンさせたが、昭和59年(1984年)頃に解散している。いつのまにか、そのいでたちのメンバーを見ることも無くなって行った。

 数年前、家内と何十年ぶりかで海猫屋にランチを食べに行ってきた。店内は当時と大分変り、稽古場だった2階は、店舗に改装されていた。せっかくなので2階でランチセットを食べさせていただいた。

 ここは、多喜二の作品「不在地主」のモデルとなった磯野商店の煉瓦倉庫として明治39年(1906年)に建てられた等々・・・、これらはガイドブック等で紹介されている。いろいろな歴史変遷を経て、今日まで息づいて、今では小樽近海の魚介類を使ったレストランとして、市民や観光客を大いに楽しませている。

(斎藤仁)