地獄坂
私が父の転勤で小樽に引っ越してきた昭和41年(1966年)、最初に住んだのが写真あたり、商大通りの旭展望台入口下一戸建ての2階だった。
当時、転勤の見送りといったら大変大げさなものだった。というか、その時以来見送りを経験する事がないので比較はできないし、子どもの目ということで少々割り引いたとしても、大層なものだった。
さて、見送りの場面に話は戻し・・・。
それには、送る側も動員をかけ、送られる側もそれなりの服装で臨んだものだった。私の格好といったら、一張羅に蝶ネクタイ。そんなスタイルであるのだから、前年小学校入学時、特別に誂えた入学式にしか使っていないよそ行きの革靴を履きたかったのだが、小樽はまだ雪が多く滑ったら危ないからと、ゴム長靴を履くよう母親から促された。
しかし、一世一代の晴れ舞台に、子供心にゴム長では格好悪いと考えたのか、駄々をこね、件の子どもにとって硬くて決して歩きやすいわけではない、革靴を履かせてもらった。
駅舎内は言うに及ばず、また出発ホームにも、テレビで見た出征兵士の如く、父親の職場同僚の方々、ご近所のおじさん、おばさんさんたち多くに見送られ美唄駅を後にした。
小樽駅に着いた私たち家族は、タクシーに乗り前述商大通りの転居先を目指した。4月1日だったのだが、商大通りはまだ雪が残っていた。写真のあたりで降車し、通りを横切ろうとしたその時に、地獄坂からの洗礼を受けたのだ。
私は車から降り家に着くまで、母親にしがみつき、何度も転びそうになりながら、やっとの思いでたどり着いたのだ。
この家にいたのは、たった一年間であったのだが、商大裏山でのタケノコ採り、旭展望台への冒険旅行、商業高校裏でのザリガニ採りなど、新しくできた友達と野山を駆け回り、何度もこの地獄坂を往復したものだった。
それ以来、市内にいても車でしか行かないところなのだが、夏のある日、愛犬を伴い朝日通りから、地獄坂を徒歩で半世紀ぶりに往復した。車では感じることができない、私にとっての、小樽の原風景を思い出させてもらった。
(斎藤仁)