梅源線
いつも記憶の片隅にある懐かしい風景。
きっと誰にでもあるホロっと苦い思い出の1ページ。
梅源線を走るあの路線バスを見るたびに思い出す事件がある。
路線バスはまだワンマンカーではなく、
バスガイドのお姉さんが乗っていた時代。
今はなき源町からその路線バスに乗って幼稚園に通っていた。
大きくなったらバスガイドさんになりたい。
赤いかばんに靴ぶくろ。
ついていた絵は101匹わんちゃん。
首から下げた定期券。
お気に入りは一番後ろの窓側の席。
「一番後ろに乗っちゃダメよ!」
その日の帰り、私はママの厳しい言いつけを守らなかった。
ダメな理由は楽しすぎて乗り過ごしてしまうから。
・・・乗り過ごした。
だって、その日、好きだった男の子に「おいで」って言われて、
二人で一番後ろの窓側の席に座ったんだもん。
・・・楽しすぎた。
「中野植物園前、お降りの方いらっしゃいませんかぁ」
「発車しまぁす」
遠くで聞こえたような気がしたお姉さんの声を、
聞かなかったことにしてしまった。
楽しかったから。
人生そんな楽しいことばかりがいつまでも続くはずはない。
なんとなく心配になって顔を上げると、
窓の外には見たことのない知らない町の景色が広がっていた。
「ママァ~おりるぅーウェーん!」
突然泣き出した子どもの声に驚いてバスは急停車。
降ろされた。
見たことのない知らない町で。
知らない町を泣きながら歩いた。
もう楽しくなんかない。
あんな男は大嫌いだ。
不安で涙が止まらない。
止まらないまま歩き続けた。
しばらく歩いて、ふと前を見ると見覚えのある景色。
中野植物園の入り口が見えた。
「あ、知ってるとこに来れた」
そう思ったらホッとしてまた泣けて、
泣きながら石ころだらけのでこぼこ坂道を登った。
「ママに叱られる」
そう思ったら恐ろしくなってまた泣けて、
結局うちまで泣き通しだった。
先日、ふらり思い立って、
どこへ行く当てもないのに梅源線に乗ってみた。
今も変わらない急カーブ、細くて長い坂道。
ずっと帰りを待っていてくれたように停留所が立っていた。
三十年、いや四十数年ぶりに乗った梅源線。
そういえばバスガイドさんにはならなかった。
その後に憧れたパーマ屋さんにもならなかった。
何にもならないままバスに揺られて、
これからどこまで行けるのだろう。
きっとまだまだ道は続きバスは坂を上り坂を下る。
当時、冬になると雪でバスが坂道を上れなくなるので、
梅源線は春まで運休となり、私は幼稚園を中退した。
終点まではまだ遠い。
(香)