幻の町
幻の町。
長い月日が経ち、私は帰りたかった小樽に帰って来た。
新しい居場所に。
時代は昭和。昭和五十年のはじめ頃。まだ小樽が観光都市でもなく、テレビや映画のロケも極少なかった頃、小樽を物語の舞台にして撮影されたテレビドラマがあった。
もう三十数年前のことだが忘れもしない。タイトルは「幻の町」。東芝日曜劇場という人気番組で放送された。日曜劇場といえばあの頃は連続ドラマではなく単発専門で、よく地方のテレビ局がドラマを制作していた。そんな時代の一本である。脚本、倉本聰、主演は笠智衆、田中絹代。脇に北島三郎、桃井かおり、たしか小樽出身の室田日出男という豪華キャスト。北海道放送(HBC)制作で、その年の文化庁芸術祭賞優秀賞をはじめ数々の賞を受賞した名作である。
ドラマは樺太からの引揚者である老夫婦が戦前に住んでいた真岡の地図を作るというようなお話だった。薄れていく樺太での記憶を辿りながら、知人を訪ね、思い出を訊ね、幻の町を尋ねる。冬の港にちょこんと立って遠くを見つめている老夫婦。哀しくもあり、優しくもあり、温かくもある素敵なドラマだった。
私は当時暮らしていたおばあちゃんちの屋根裏部屋で、壊れかかったテレビにかじりつき、駅前、商店街、市場、港、テレビに映る懐かしい小樽の町を見ていた。 当時、まだ中学生か、なりたての高校生だったのに懐かしいというのも可笑しいが、懐かしかったのである。懐かしくて涙が流れた。なぜなら、ある意味でその頃、私にとっても小樽は幻の町だったのである。
悲しい別れを余儀なくされて、モノゴコロついてからずっと住んでいた小樽の町を離れ、いつかまた帰る日を夢みて暮らしていた。帰りたかった。帰りたかった小樽の町がテレビに写っている。
大人たちが見るような、テレビドラマが好きだった。 早く大人になりたくて。
笠さんと田中さん演じる老夫婦。まるで本当の夫婦のようなふたり。長く連れ添い苦労を共にした妻を愛おしそうに照れくさそうに見つめる夫と、いくつになってもお茶目で可愛い妻。現実にそんなふうにふたりで歳を重ねられるものだろうか?あっという間に離れ離れになってしまう心もあるのに。子ども心にそう感じた。忘れられないシーンである。
長い月日が経ち、私は帰りたかった小樽に帰って来た。
新しい居場所に。
幻は幻のままで。
そういえばひいおじいちゃんも樺太からの引揚者だった。
その子孫である。
そう思ったらいつもの港が少し違って見えた。
(香)