旧小樽聾学校と小林運平

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 私が卒業した緑小学校は、松ヶ枝、東山、菁園、西陵の4つの中学校区にまたがる学校だった。そのうち東山の校区にあたる入船方面の友達と遊ぶ時は、入船公園を良く使っていた。

 初夏のある日、その入船公園に数人の低学年児童と、先生とおぼしき大人が遊びに来ていた。遠くから見ていた光景は、芝生に寝転がったり、じゃれあったりごく普通に楽しそうに遊ぶ親子のような姿だった。

 その子達が、私達の遊んでいる遊具の方に来たときだった。遠目にはわからなかったが、いかにも目や耳が不自由だというのが一見してわかったのだ。これが小樽聾学校の児童とはじめて遭遇した時のことである。子供心にいろいろな感情が入り混じったのを、今でも覚えている。

「・・・・」
「この子たちは聾学校の子だ。よく先生方とこの公園に来て遊んでいる」
「聾学校ってどこにあるの」
「あの丘のふもとだよ」
と入船町に住む友達が、聖ヶ丘を指さし教えてくれた。

 小樽聾学校は、北海道の盲唖教育の先駆者であられた小林運平先生が、明治39年(1906年)に開校した私立小樽盲唖学校が前身という。昭和23年(1948年)道立に移管され、これまで670名の卒業生を輩出している。

 しかし、児童・生徒数の減少により平成26年(2014年)3月末をもって、札幌聾学校に統合された。107年の歴史に幕を閉じたわけである。

 秋田出身の小林先生は量徳小学校で明治36年(1903年)3名の聾唖者の担任となったことが、小樽盲唖学校設立のきっかけとなったと記されている。最初は住吉神社界隈に学校を建て、量徳小学校教員と兼務していたそうだ。当時、小樽と函館にしか聾学校はなく、全道各地より入学者があったという。

 100年以上も前、障がい児に対する差別・偏見が多く残る中、私財を投げ打ち聾唖教育に生涯をかけた先人がいることを改めて考えてみた。

 余談だが、銭函に北海道高等ろう学校が昭和45年(1970年)に、全道5つの聾学校高等部が統合されて設立されたが、先駆者小林先生の功績で小樽の地にできたのではなかろうかと思っているのだが・・・。

(斎藤仁)