塩谷駅

 塩谷駅は、小樽駅の上り方面次駅である。函館-小樽間の北海道鉄道株式会社全線開通が明治38年(1905年)なのだが、それより前の明治36年(1903年)6月28日に忍路(現蘭島)-高島(現小樽)間として部分開業している。

 小樽の海沿いに設置された駅として、塩谷駅のみ海岸線から800mも山あいの地に建設されている。塩谷小学校の手前辺りまで国道と鉄路はほぼ平行に走っているのだが、ここから大きく山側に迂回している。

 小樽の海岸線を走る幌内鉄道の開通により、熊碓、朝里、張碓、銭函の漁村が不漁続きとなり、「陸蒸気(おかじょうき)の汽笛が不漁の原因」という風評が上がっていた。そして、塩谷の漁師たちの抗議により、当時の塩谷村が現在地の駅建設を希望したと教えてくれたのは、小学校の担任だった。実際はそれだけの理由ではないようであるが、表向きにはそう言われている。

 塩谷駅は、昭和42年(1967年)年度NHK朝の連続テレビ小説「旅路」の舞台となっている。後に水戸黄門で格さん役となる横内正と、劇団民藝の日色ともゑが主演の国鉄職員一家のテレビドラマのために書き下ろした物語だった。

 塩谷駅の駅長役は、七人の侍にも出演した名優加東大介だったことを覚えている。これにより、塩谷駅は一気にクローズアップされる事となった。

 私と塩谷駅の思い出であるが、残念ながら、現存する小樽市内の駅でこの塩谷駅だけ乗降したことがない・・・。

 30年ほど前まで、夏になると、国道は蘭島に向かう海水浴客で渋滞を引き起こしていた。それを避けるため、まだ天ぷら舗装しかされていなかった通称「伍助沢線」の小樽環状線を、土煙を上げながら走っていた時に、何度かこの塩谷駅の先代駅舎を横目に走っていた。

 ちなみに現駅舎は、平成元年(1989年)に改築されている。ただ、無人化された昭和59年(1984年)以降何度か駅舎内に入ったり、ホームを歩いたことはある。

 昭和一桁生まれで、齢90を優に超える塩谷出身の岩舩早苗氏が塩谷駅の思い出を語ったことがあった。塩谷の吉原生まれだった岩舩氏は、塩谷高等尋常小学校を卒業する正月、祝津にある母親の実家に年始を届ける役目を負わされた。

 早朝家を出る。徳源寺の坂を汗をかきながら上り、切割りを抜け塩谷駅に着く。もうここまでで汗だくである。駅舎のストーブ前の金網に帽子と手袋を干し、小樽駅までの切符を買い函館方面からの列車を待つ。当時、唯一の交通手段だった塩谷駅は、人でごった返していたそうだ。

 小樽駅まで乗車し、それから徒歩で手宮まで歩き、本田沢を抜け祝津までの山道を歩いたそう。今と違い、手宮界隈一の賑わいだった本田沢に目を奪われながらも、手汗と自身の湯気でボロボロとなった年始を祝津の親類宅まで届けたのだ。

 帰りは逆ルートで塩谷駅に戻ってくるのだが、辺りは当然のごとく真っ暗だったと述懐していた。アクセスの良い現在とは隔世の感があるお話しだったのだが、妙に塩谷駅の行(くだり)が印象に残っていたお話しであったのである。

(斎藤仁)


※本記事の内容は2020年7月時点の情報に基づいたものです。