想いの透ける硝子たち

 私は小樽といえば硝子だと思っていた。
 小樽運河よりも水族館よりも先に染み込んでいた小樽の印象は、硝子だった。 

 どうして小樽の硝子にそこまで惹かれるのだろうか。
 理由なんてない、ただ綺麗だからだ。そう言ってしまえばそこまでなのだが、正確にはそうではない。

 「硝子」は綺麗だから好きだ。一体どうやってあのゆらぎは生まれるのだろう。なぜあのような色の移り変わりが表現できるのだろう。様々な疑問が次から次へと湧いてきて、それらについて考えているうちに時間はすぐに過ぎ去ってしまう。
 何も考えずにただただ、ぼーっと見ているのも楽しい。 

 私が「小樽の硝子」に惹かれる理由。それは他所にはない、地域に根付いた硝子だからである。
 高校の修学旅行で硝子の有名な道外の某所へ行った。綺麗だった。だが感想はそれだけだった。

 小樽は違う。あたたかい人が迎えてくれて、人との距離が近く、冷たいはずの硝子にもなぜかあたたかみが感じられる。
 「硝子好きに悪い人はいない」とまで思ってしまいそうになるくらいのあたたかさ。小樽の硝子には、それがある。 

 硝子が大好きな私が、硝子のまち小樽に来て、1日をそこで過ごしたとき、やっとわかった。
 私は、ただの硝子が好きなわけではない。硝子を通じて人のあたたかさを感じるのが好きなんだ、と。小樽ではそれができる。

 どうしてなのだろうか。改めて考えてわかった、小樽が他の地域と異なるところ。それは観光地と小樽人の生活圏の近さだった。
 そのふたつは小樽というひとつのまちで共存していたのだ。小樽の住人にとって観光客は赤の他人ではない。誰もがあたたかく「小樽へようこそ」と迎えてくれる。
 小樽は、あたたかいまちだ。硝子のひとつひとつから、それは容易に感じることができる。 

(鈴)


※本記事の内容は2019年7月時点の情報に基づいたものです。