1983年6月に発売された松田聖子のアルバム「ユートピア」のA面の2曲目に「マイアミ午前5時」という隠れた名曲がある。
僕は、「海辺の三叉路 横切って」という歌詞で始まるこの曲を聴くたびに、小樽商業高校のすぐ下にある「三叉路」を思い出す。そこからは遠くに海が見えた。そしてそこは、毎日、大学まで通う通学路だった。

生まれてからずっと札幌で育った僕は、子供の頃から海とは縁遠い生活を送っていた。そもそも、日常の生活の中で海が見えることなどなかった。
が、大学生になり小樽に住んでみて、海が実に身近な存在であることに気が付いた。それは、海に遊びに行くということではない。
ふとした日常生活の中で、いつでも海が見えるのだ。
一人暮らしの部屋の窓から海が見えた。学校からも海が見えた。
下校の時も、そしてあの三叉路からも海が見えた。
そして、ただ海が見えるだけで、気持ちが落ち着いた。

僕は、大学時代に遊び過ぎが高じて留年している。
もう30年以上も前の話だ。

新学期になって3年生になる時、「実質2年次生」という赤いハンコを押された成績表をもらった時は途方に暮れた。
だけど、親には言わなければならない。
その頃、親は転勤で札幌を離れていたので、簡単には帰省できなかった。伝えるには電話しかない。が、それでも怒鳴られるのは間違いない。
その頃は携帯電話などあるはずもなく、僕の部屋には電話すらなかった。親と僕とが連絡をとる手段は、僕からかける公衆電話しかなかった。

僕は、一計を案じてわざと10円玉を一枚だけ入れて親に電話をかけた。
母親が出た。
「もしもし」
「かあさん、オレ」
「なしたの」
「ゴメン、留年した」
「留年? なにそれ。落第ってことかい?」
「そう」
「なしてまた・・・・ツーツーツー」
電話が切れた。
10円しか入れてないから、通話時間が数秒しかなかったのだ。
あっという間に電話が切れたが、そのあと、受話器を握りしめた親が怒り心頭になったのは想像がつく。
僕は、怒られるのが怖くて、しばらく電話をしなかった。
僕から電話をしなければ、親は僕と話すことができないからだ。
が、さすがに落ち込んだ。

やがて、母親から手紙がきた。
「体だけは気を付けなさい」という内容だった。
僕はこの手紙を読んで、帰省した。そして、キチンと謝った。
父親に「これが最後だからな」との条件付きで許してもらい、なんとか再び学生生活ができるようになった。

小樽の部屋に戻ると、いつものように窓から海が見えた。
学校からも、あの三叉路からも青い海が見えた。

 

(みょうてん)