忠魂碑

monument_to_the_loyal_dead

「学校終わったら凧もって忠魂碑に集合だ!!!」
「さあ、みんなで野球やるべ、○○、お前家近いから場所取りな」
「帰りに北照の試合あるから、忠魂碑に観に行くべ」
そんな掛け声とともに、私が昭和46年3月に卒業した緑小学校の児童は、よく小樽公園内にある顕誠塔に集まった。

 顕誠塔前広場は、猫の額ほどのグラウンドしかない緑小の子どもたちにとって、第二グラウンドよろしく、野球、ドッチボール、サッカーなどで遊べる格好の場所だった。更に昔昭和30年代は、花園グラウンド、桜ヶ丘球場のようにスケートリンクになったこともあった。

 小樽の顕誠塔は大正13年(1924年)に小樽公園内の小高い丘の上に、全国的にも類を見ない、高さ17m以上もある塔が建立された。当初は戦没者を祀る忠魂碑と称していたが、戦後、当局の圧力により、戦死者のみならず、郷土小樽に貢献された方々も合祀されるようになり顕誠塔と改称された。しかし、市民はいまだ忠魂碑と呼んでいる。

 小樽のお祭りは、5月14、15日の両日開催されるここの招魂祭が皮切りとなるが、このお祭りは毎年雨にたたられることで有名だ。それは祀られている人たちの涙雨と、市民の誰もが信じて疑わない。

 ここからは丘下にある桜ヶ丘球場を望むことができ、小学生の頃、有料だった高校野球小樽支部予選を、友達とタダ見をさせていただいたことが何度もあった。ちなみに現在は木々が生い茂り、この広場から観戦することはできなくなった。

 また、旧東山中学校側の東南斜面には、小樽初の簡易夜間照明が付き東山スロープがあり、多くのスキーヤーで賑わっていた。斜面があればどこでも簡易スキー場になった時代である。ちなみに現在はその面影はない。天狗山、朝里川温泉スキー場に夜間照明ができるずっと前のことであった。

 子どもの頃遊んだ広場は、植樹が進み球技等で遊ぶ事はできなくなっているが、塔の上にそびえる「金鴟」は今なお大きく翼を広げ小樽の街を見守っている。

(斎藤仁)