北の学習院

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 「堺小学校は、北の学習院と呼ばれていたんだって?」
 「なんかそうらしいね、自分が通っている時はそんな事言われたことも聞いたこともないような気がするけど・・・、だいたい学習院と言っても、よくわからなかったしね。」
齢70を超えたその卒業生は答えてくれたが、こうも付け加えてくれた。

 「ただ、叔父の入学式の写真は、学習院の制服、あの写真でよく見る皇族の着ている、あれを着ていた。もちろん、あつらえたものだったようだわ」
 「へぇー、やっぱり北の学習院なんだ、叔父さんがご存命なら90歳過ぎだから、その頃は創立20-30年頃、当初から学習院を謳っていたわけだな」
 と勝手な解釈をしつつ、雑談を終えた・・・。

 昨年の秋も深まった頃、犬の散歩で旧堺小グラウンドを訪れた。その時に発見したのが、写真の記念碑だ。「嗚呼!北の学習院 小樽市立堺小学校跡」と大きく書かれていた。

 現在、旧堺小校舎は、旧小樽病院内にあった高等看護学院、さらにシルバー人材センター、職業訓練センター、堺小学校記念室が入居し再利用されている。私は閉校後、正面玄関から仕事で入ったことはあったが、まさか裏のグラウンド跡にかくも立派な記念碑があったなど、知る由もなかったのである。

 堺小の周りは、小樽経済界重鎮の大邸宅が立ち並び、小樽はもちろん、北海道、はたまた日本を代表する経済人の子弟が通学していた。そのことから、誰が呼んだか「北の学習院」の別名を持ったということのようだ。

 またこの界隈は、料亭、芸者置屋が多数あり、昼間から三味線やお琴の音色が響き渡る、粋な街であった。故に、経済界の子どもたちと一緒に、二号さん、三号さんの子供たちも一緒の教室で学ぶという、なんとも酔狂な学校だったと前述の卒業生は教えてくれた。でも、差別も選別もなく、みんな楽しく遊んで学んでいた気がすると話してくれた。

 平成18年(2006年)3月をもって閉校した堺小学校は、いつまでも「北の学習院」として市民の記憶に残るに違いないと思っている。

(斎藤仁)