石川啄木

takuboku

 緑小学校での5.6年担任教諭だった先生が、授業で小樽と石川啄木との関係を教えてくれた事がある。以下のような内容だった。

 「教科書に出てくる歌人の石川啄木は、昔小樽に住んでいたことがある。それを記念して歌碑が小樽公園内に建立された。しかし、小樽に関し、残っている歌は少なく今一つ小樽を良く詠んでいないということで、その歌は歌碑の裏面の由緒書きに書かれ、表面には教科書に出てくる有名な歌を書いたそうだ。」

 前者が「かなしきは 小樽の町よ 歌ふことなき人人の 声の荒さよ」
 後者が「こころよく我にはたらく仕事あれそれを仕遂げて死なむと思ふ」

 後に前者も小樽が活気に満ちている様子を歌に詠んだという評価になり、水天宮境内に昭和55年(1980年)、前者を表面に記載した第二の歌碑が建立された。

 石川啄木が小樽在住3か月の間逗留したのが、公園通り「た志満」の前身南部煎餅屋の2階であったそうだ。啄木一家が義兄の初代小樽駅長山本千三郎を頼っての来樽したのが明治40年(1907年)9月、その年の12月には務めていた小樽日報社を退社し、翌年1月には単身釧路に向かい旅立っている。

 その時の様子を歌に詠んだのが
 「子を負ひて 雪の吹き入る停車場に われ見送りし妻の眉かな」

 この歌は小樽駅前三角市場側から、駅を見下ろすように第三の歌碑として平成17年(2005年)10月に建立された。たった三か月の在住で歌碑を3つも残す夭折の歌人石川啄木の人気は凄いと改めて思った次第。

 ちなみに北海道では啄木一族の墓、啄木小公園やブロンズ像のある函館が有名であるが、小樽の後任地釧路には何と27の歌碑があるというから、3つ位で驚いちゃ笑われる。

 後年、啄木の人間臭いいろいろなエピソードが紹介されるが、時代を反映し生活弱者側から詠まれる歌は、人々の琴線に触れ人気を博したのだろう。

 毎年発表されるサラリーマン川柳とダブってしまうのは私だけか・・・。

(斎藤仁)