餅つき

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小樽は餅屋、ケーキ屋の多い街である。餅屋は、明治後期、大正、昭和の時代、朝生(あさなま)と称し、午前4-5時頃に、港で働く人達に、朝飯前の腹ごしらえとして、大福餅などを、売り歩いたと言う。

昭和47年12月末、私の中学2年冬休みに、友人と二人で、一週間の餅つきアルバイトをした事がある。現在、稲穂交差点にある松月堂が、緑町にあった時のことで、現会長の奥村泰吉氏が父の友人であったことから、実現したバイトだった。

子供会で餅つきを見た経験はあったが、作業は大人たちがお膳立てしてくれていて、子供たちは、食べる専門だった。お雑煮、あんころ餅、あべかわ、海苔しょうゆ、おろし納豆、想像するだけでよだれが出てくる。さて、話しは戻るとして、本格的な餅つきは、これが初体験であった。

最初の作業は、屋根裏物置から、給食のパン箱のような、木箱を何十も取り出し、清掃する事だった。
「ちゃんと隅々まで、しっかり拭いてくれよ、お餅を入れるんだからな」
などと言われ、家では手抜きでしかやったことのない作業を、しっかりと、心を込めて行った。

次に、馬そりを曳いて、各家庭から餅米の回収だ。この時初めて、委託して餅つきしてもらうシステムを知った。
なにしろ馬そりである。現在のプラ製ポップそりとは、訳が違う。そりそのものの重さが、半端ではなかった。友人と二人、鼻水を垂らしながら回収した思い出が蘇る。それを何日かくり返し、餅つき本番の日を迎えた。

私の担当は、米研ぎとそれを蒸篭(せいろ)に乗せ、蒸しあがった餅米を臼に移す作業だった。

漬物の二斗樽(杉製)に、米袋から餅米を入れ、垂木を十字にした特製研ぎ棒で、ザックザックと左右に回しながら、研ぐ。

「すいません、この樽、隙間だらけですけど・・・」
「ああ、それか、水張ったら隙間なくなるから心配するな」
「へぇ、そうなんだ・・・」

そんな会話をしながら、作業に入った。あらかじめ用意された布の敷いた四角い蒸篭の中に、目分量で入れる。
まあ、これは比較的楽にできた。

次の作業が、緊張の連続だった。ガス釜に付随している手動ジャッキで、二番目より上を持ち上げ、一番下の蒸篭から蒸しあがった米を、取り出すのだか、ジャッキのハンドルを回すと、高温の湯気が一気に顔にかかる。その中、布の四隅を持って、臼に入れる。作業中は、落としたらどうしよう、とばかり考えていた。幸い、失敗する事もなく、作業は終了した。

つきあがった餅は、職人さん達が、小麦粉を敷いた作業台の上で、手早く伸餅、豆餅等にしていた。

杵は電動で、臼も石製だった。想像した木製杵と臼の、餅つきではなかったが、緊張の初バイトは無事終了した。時給100円の時代である。

(斎藤仁)